北勢町(文化財ほか)
1. 麻績塚古墳
麻生田の地は、古来、伊勢の神領として麻の栽培や紡織が盛んであり「和名抄」にもその名をとどめています。この地に「王塚」または「茶臼山古墳」といわれる大小2つの古墳があり、埋葬された人物の名をとって一般に「麻績塚」と呼ばれている。墓の主の名は、伝承によれば神麻績連。天物知命の后、また、桑名玖賀の姫ともいわれているが、その名のとおり、麻の栽培・紡織といった生産に深い関係を持っていたことがうかがえる。
2. 桜番所跡
養老山地を境に岐阜県と接する北勢町には、古来「濃州通路」と呼ばれた美濃国への道がいくつもあり、その要路には「番所」といわれる関所が設けられていた。こうした封建時代の関所の面影を残すのが、北田番所跡、通称「桜番所跡」。杉の老木に囲まれた「桜番所」は、現在「多度山系ハイキングコース」の北勢町側の終点となっている。古びた鳥居や道祖神を見ていると遥か昔の人々の心が偲ばれる。
3. 東林寺・宝篋(ほうきょう)印塔・白滝
奈良時代の高僧・行基の開山ともいわれる「東林寺」は、樹齢数100年を数える杉の大木に囲まれた古刹。養老の裏滝と呼ばれる涼しげな「白滝」の清楚な佇まいは、訪れる人の心を優しく包んでくれるかのよう・・・。本堂脇の一角にある「宝篋印塔」は、南北朝時代の仏塔で三重県の文化財に指定されている。基層部に「貞和4年、2月□日浄心妙因」とあり、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗の姪で美濃国守護・土岐頼貞に嫁いだ人物と判明している。
4. 治田鉱山跡
江戸時代前期から後期にかけて、銀・銅の採掘で隆盛を極めたのが「治田鉱山」。その採掘量については不明ですが、元禄元年(1688年)の銀代金1万1千171両とみれば、並々ならぬものであったことがわかる。また、豊臣秀頼亡き後、桑名城主・本多忠政の子・中務大輔忠刻に嫁がせた千姫の化粧料として「治田鉱山」が充てられたといわれている。現在の鉱山は、荒れ果てた佇まいの中にひっそりと歴史の名残を伝えている。
5. 田辺城址
北勢町内に8~12箇所あるといわれる中世城館跡のうち、その面影が鮮明であること、規模が最大であること、調査が進んでいることなどから、代表的な城館跡としてあげられるのが「田辺城址」。天正年間、北畠氏の流れを汲む木造長政の居城であったことが判明している。台地先端に方形の本丸を設け、同一平面上に家臣団の居館を配した典型的な戦国城館の形式は、関東地方を中心に行われた丘陵城郭と呼ばれるものである。
6. 八幡祭
神輿渡御(みこしとぎょ)(神輿が町の中を進んでいくこと)がある阿下喜の八幡祭は、もともと、見性寺(けんしょうじ)の東の小高い丘に、鎌倉時代《1192年》から室町時代《1338年》のころ、「上木(あげき)(阿下喜)城」の守り神様として祀(まつ)られていた「八幡社」のお祭りでした。しかし、いつかわかりませんが、このお祭りが途絶えてしまいました。お祭りが再び始められたのは、江戸時代の終わりのころ、嘉永2年(1849年)6月15日のことと伝えられています。八幡社から西町の二俣(ふたまた)(現在の忠魂碑(ちゅうこんひ)のあるところ)にある「八天宮(はってんぐう)」を御旅所(神様が休まれるところ)として、十文字に組んだ木の枠の真ん中に、御幣(ごへい)(紙を細長く切って木にはさんだもの)を立てた神輿で村々を進み、夜になると八幡社に戻りました。現在のような神輿は、明治になって京都で買い求めたものです。
明治の終わりころ、「八幡社」は大西神社と一緒に祀られることになりました。それからは、神輿は大西神社を出発して「赤神の燈籠(しゃごじのとうろう)」付近につくられた御旅所までねり渡ることになりました。このお祭りは、昭和(1926~)になると、年々賑(にぎ)やかに行われ、近くの町から見物人がたくさん集まり、また、故郷に帰ってくる人たちも加わって、員弁の「あばれみこし」として知られるようになりました。7月15日を大人神輿(おとなみこし)(大神輿(おおみこし))、その前日を子供神輿(こみこし)として行われていましたが、昭和50年(1975年)ごろから、7月の第4土・日曜日になりました。榊(さかき)に清められ、鉦(かね)や太鼓が鳴り響く道を、御幣(ごへい)と五色の旗を先頭に、高張提灯(たかはりちょうちん)に囲まれた神輿は、さらしの衣装を身にまとった担(かつ)ぎ手の「サンヨ、サンヨ」の声に踊りながら、5つの屋形を渡っていきます。何代にもわたって引き継がれてきた阿下喜の大切なお祭りです。
7. 御厨・御園
御厨(水田)・御園(畑)は、古代から中世にかけて、天皇の朝夕の膳を調進する所領や、伊勢神宮・熱田神宮・加茂神社等の供祭物(くさいもつ)を献納することを目的とする神領をいう。伊勢神宮の場合は、貢納米(造酒米(みきまい)等)を納め、塩・魚介類などの海産物、野菜・果物、紙・絹・布などの土地の特参品を差し出した。県下には、伊勢地方を中心に数百か所に分布していたという。
『勢陽五鈴遺響(せいようごれいいきょう)』(三重県郷土史料刊行会刊)による当地方の御厨・御園は、次のとおりであった。
町内の部
・阿下喜 | 阿下喜御厨 神鳳鈔(じんぼうしょう)に「内宮(ないくう) 五四丁村 外宮(げくう)反別 五升院済 一〇石」とある。 |
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・飯 倉 | 飯倉御厨 外宮神領目録に「ニ石 九月、一ニ月各五斗、凡て神(御)厨・御園ある池 必ず神社あり。 しかる時は本社は飯倉の所在に従うべし」とある。 |
・塩 崎 | 志竈(しおがま)御厨 神鳳鈔に 内宮 志竈御厨三石(六、九、十二月)御塩神田八反 とある。 神風微古録(じんぷうちょうころく)に、志竈御厨 今、塩崎と云い微(しる)すとするに足れりとある |
・二之瀬 | 仁大御厨 神鳳鈔に 仁大御厨一本仁の瀬に作る。伝写の誤りなるべしとある。深(ふか)瀬御厨がこの瀬に転じたともいう。 |
・畑 毛 | 高畠御厨 旧名 高畠なるべし。神鳳鈔に 高畠御園三石 とある。外宮高畠御園 並びに 永光一丁 とある。 |
・向 平 | 平田御厨 旧名 平田と微古録にある。神鳳鈔に 外宮平田御厨 一石五斗 外宮神領目録に 平田御園 三斗 内六、九、十二月 とある。 |
・麻生田 | 麻生田御厨 神鳳鈔に内宮 麻生田御厨 十五丁 三石 外宮神領目録に 大豆五斗、別に一石 とある。 |
・治 田 | 治田御厨 神鳳鈔に「二宮(内宮・外宮)治田御厨 六石 神領目録に 外宮治田御厨 三石 内六、九、十二月 一石宛」 とある。 |
町外の部
・東員町 | 穴太御厨、大墓(大木)御厨、小中上(おなかがみ)(中上)御厨、小(北)山田御厨、長深(ながふけ)御厨、東富津御厨、山田御厨 |
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・藤原町 | 饗庭(あいば)(相場)御厨、石川御厨、米野御厨、志礼石(しれいし)御厨(本郷)、東禅寺御厨、坂本御厨 |
・大安町 | 石榑御厨(石榑荘(のしょう))、笠間御厨(笠間荘)、丹生川御厨、宇賀御厨、片日(かたひ)(片樋)御厨、大井田御厨、梅津(梅戸)御厨、高柳御厨 |
・員弁町 | 大泉御厨、笠田御厨、曽原(楚原)御厨 |
近年、田の基盤整備(圃場整備)がなされるまでは、当地方にも「伊勢田(いせでん)」と呼ばれる田があった。これは、一つには伊勢神宮の御厨・御園の名残と考えられる。も一つは、毎年の伊勢神宮代参(区の代表参拝)の玉串(たまぐし)料・その他の諸経費を繰り出す「特別の田」であったのだろう。なお、員弁町の現大字御園も、いずれかの御園であったと考えられるが明らかではない。
貢納した租米は国司の手によりて神宮に納め、神宮の造営及び祭祀の料に充てられた。この他、別に各郡から奉納神酒、祭祀料などがあり、本郡からは毎年御酒三石、祭料並に造酒米一八石を納め、神領の年貢は相当に重かった。
かくて平安朝末期までは神宮の最盛時代で、神領も拡大し、神宮の祭儀や用度に事欠くことはなかったが、その後、武家の世となって守護や地頭が神税を犯すようになり、又地方の郡司 郷司名主、百姓等も神役をのがれんため、神領を武門権門に寄附して一向顧みなくなり、神宮は一時疲幣した。
8. 村名と鎮守
暦応2年(1339)の田切六名衆の文書を見る時、村(惣(そう))はすでに出来上がっており、村の運営は今日以上に厳しいものがあったと考えられる。特に米はもちろん、麻・綿・養蚕・粟・稗などの農産物も、生産力の向上により多くなり、また、宋銭の輸入によって各地に市場等が開かれ、賑やかになった。1400年代は、将軍足利義満が明国との間に「勘合(かんごう)貿易」を行ったので多量の永楽銭が輸入され、日本の経済・産業は急速に発展し、活気をもたらした時代であった。郷村(ごうそん)制は、村の長を中心に、鎮守の森において酒を酌み交わし、村の「掟(おきて)」を定め、内と外の守りを固めた時代であったという。中でも、美耶(みや)郷の「十社(とやしろ)」は、文字どおり「社(やしろ)」中心の村であったと考えられる。
中津原
中津原村は、小穴谷川と連花谷川の水を台地に引き、出来た村里である。朝夕はよく日の当たる高台で、田畑を開き定住してきた村で、名称を「中ツ国」と言いたいところ、「中ツ原」と自負的な意味を含めて出来た耶麻(やま)郷の代表的な村である。
のち、寛永13年(1636)ごろ、南・北に分かれたが、中津原神社一社のまま「宮座」を中心にまとまっている。
皷・貝野
耶麻郷の北の端は貝野村・皷村で、貝野村と皷村は往古より交流は多く、貝野村は水利に恵まれた大村であった。しかし、皷村は水利に恵まれず小村であった。田は、小谷の湧き水を利用する谷田開墾によって生産を高めてきた。
皷村は、波羅(はら)神社の宮座を中心とした村である。波羅は、仏語で「彼岸に達する」という意味で、波羅は、寅の異称であるという。なるほど、この神社は村の寅の方向(東北東)に鎮座している。
治田(はった)
古来、治田は治田郷八か村と言われて来たし、今もなお耳にする。『北勢町の地名』によると、治田は『和名鈔』に出てくる美耶郷や耶麻郷とは別のものと考えるべきで、地名の「治田」については更に考究すべき点が多いと述べられている。一例として、「墾田」の功績によって、「治田連(むらじ)」姓を賜った近江の国浅井郡の子孫が、当地に移住して集落を作ったとある。
このことは、伊勢の国と近江の国との国境に藤原岳があり、その南にある治田峠を利用して、古来から両国住民の往来や移住が行われてきたことは十分考えられるからであろう。
飯倉(いぐら)
石神社を参照されたい。
阿下喜(あげき)(上木)
阿下喜根元記によれば、村の入口は五か所あったという。すなわち、関屋口、鳥坂野、ませ口、藤木坂、樋の口である。
「往古、真言宗の時、年々灌頂(かんちょう)あり、雑人入り来り甚だ無礼なり。この故に関所を構え、出入りを咎(とが)めたるなり」とある。
この時代、いずれの村にも入口には木戸が設けられ、事ある時はもちろん、平時でも木戸を開け閉めして警戒に当たったと伝えられる。
「別当野の聖学院(しょうがくいん)の古跡―灌頂がけの森―にて会あり」
識者が少なかった時代のこと、真言宗の「灌頂」―頭に水・香水を注ぐ儀式―が、当て字表記で「勘定(地)」、「観場(地)」になったものと考えられる。
古来より、阿下喜は人の集まる所、農産物の集散地であり、定期市が開かれた。初めは月三回であったものが、商品流通の発展とともに五日おきの月六回、いわゆる六斎市(ろくさいいち)になった(川原村に「日詰(ひづめ)」と呼ばれる地名があるが、これは、月の市日(いちび)の「最終日」のことである)。
楚里(そり)
麻生田(おおだ)楚里、其原楚里、中津原楚里、平野新田楚里、皷楚里の地名は近ごろまであった。「楚」はトゲのある木の意義から、楚里は、「トゲのある木の里」を意味する。明治の初めに、現楚里地内に学校が創立されたが、「楚里学校」と名付けられた。
そもそも、楚里は休耕地の焼畑で、5~6年穀物を作った後、7~8年から10年以上も放置しておき、地方の回復を待って焼畑とする「そらし畑」である(ソルは、元に戻すの意)。『日本農民史語彙(ごい)』によれば、焼き畑は、山野の柴草を刈り、土地を耕起せずそのまま種子を撒き、秋になり収穫する畑。土地広大にして人口の少ない地方の「焼き畑粗放農法」で、山間部に多し。蕎麦・稗・粟・黍(きび)等のほか大根などが撒かれた、とある。
楚里の面積は約60町歩、今は道路・水利・水道のお陰で昔の面影は全くなく、快適な住環境である。
麻生田(おおだ)
麻生田という村名は、大和・三河・越後・肥後の諸国にある。麻生(あそお)神社の祭神は長白羽神(ながしらはのかみ)である。この神は、麻生田の地名に最も深い関わりがあると言われる。つまり、『古語拾遺(こごしゅうい)』によると、天照大神を「天(あま)の岩屋」から招き出すために、「長白羽神に麻を植えて「青和幣(あおにぎて)」を作らせ祭祀の料とすることになった」とある(注 青和幣は神に供える麻の布)。
この土地に、服飾関係の神領があったか、あるいは機織りを業とする一族がいて、この神を祀ったのであろうと考えられる。
また、この地には、二つの麻績(おみ)塚古墳がる。この古墳は、古代の「語り部(べ)」といえるのではなかろうか。
小原一色(こはらいっしき)
一色地名は全国に多い。員弁郡内でも大字名として、北勢町小原一色の他に員弁町東一色がある。また小字名を拾うと次の通りである。麻生田字北一色・南一色・下一色・員弁町市之原中一色・員弁町東一色字一色浦・大安町石榑南字南一色・北一色・東員町瀬古泉字一色辞典を引くと「一色」について次のような意味が記されている。
(1) 一つの色。例えば、青葉の季節など「全山青一色」という。
(2) 品物などが一つの種類、または、すべて同一の種類であること。
(3) 何かに関連する事物すべて、その一揃い。例「武具一色」
(4) ある事柄につき、他の支配を受けず、自分だけで処置すること。
(4)の意味がいっそう具体化された場合として、『時代別国語大辞典』は次のように記している。
一色 自己の所有する土地について他人の支配の及ぶことを認めず、完全に自分の思うままに支配、統一すること。
荘園制において「一色別納」という語があり、年貢公事(ねんぐくじ)などの租税のうち一種だけを領主、あるいは国家に納入し、他は免除されることを意味した。
9. 京ヶ野伝説
京ヶ野新田は、北勢町大字向平の集落の西、字大野を隔てて更に西側に位置し、南北に広がる一帯の丘陵地である。この南の端は大字瀬木地内、北の端は、大字川原地内となっている。この土地にまつわる伝説が、当区の田切山春光寺の縁起とかかわって語り継がれている。
時代背景
第四級代光仁(こうにん)天皇 即位 宝亀元年(770)
同 皇后 井上内親王(いのえないしんのう)
譲位 天応元年(781)
光仁天皇の時代にもあったが、とりわけ皇位継承問題については、天智系皇族と天武系皇族、それに、時の権力者―藤原氏、大判氏、佐伯氏、博学の学者政治家吉備真備(きびのまきび)等―が絡んで、血なまぐさい事件が次々と起こっている。第五〇代桓武(かんむ)天皇即位後も、なお続いた。光仁天皇が62歳で即位して、皇太子に立ったのは、第一皇子である山部(やまのべ)親王(桓武天皇)ではなく、第三皇子の他戸(おさべ)親王であった。宝亀二年(771)年1月のことである。ところが、天皇即位三年後の同三年三月に、皇后である井上内親王が、同年五月には他部親王が、それぞれ皇后、皇太子を廃されている。母子が謀って、天皇を呪い殺そうとしたという「大逆の罪」に問われたのである。二人は大和の国宇智郡に幽閉されていたが、宝亀六年(775)四月、同時に獄死している。山部親王が皇太子となったのは、37歳の宝亀四年一月である。
第五〇代桓武天皇 即位 天応元年(781)四月
母は、百済(くだら)系の渡来氏族・和(やまと)氏出身高野(たかの)新笠(にいがさ)
野新笠
皇太子 早良(さわら)親王、光仁天皇の第二皇子
桓武天皇とは同母弟
悲劇の皇太子――早良親王
延暦四年(785)九月、光仁、桓武の両天皇の擁立に、力のあった藤原種継(たねつぐ)の暗殺事件が起こり、この事件に巻き込まれた早良親王は、廃太子。この冤罪(えんざい)(無実の罪)に、10数日みずから飲食を断ち、淡路の国へ配流(はいる)の道中亡くなった。
桓武天皇は、造営半ばの長岡宮(ながおかのみや)(京)(京都府向日市向日)を出る。新しく、京都府上京区千本通り丸太町に、平安宮(へいあんのみや)(京)を造営する。延暦一三年(794)、新宮へ遷都。一説によると、近親者の相次ぐ不幸の、その怨霊(おんりょう)からのがれて、新宮に平安楽土を求めたのだともいう。
京ヶ野伝説
この伝説の主人公は、桓武天皇の弟「樹本皇子(きのもとのきみ)」である。延暦三年(784)、樹本皇子は、兄君桓武天皇との関係よろしからず、重臣の田切麿(まろ)(田切丸)ほか六名を供として、京の都を離れて今の大字向平の地に入った。田切麿は、蝦夷地平定に大きな功績を残した武将※坂上田村麿(さかのうえたむらまろ)の弟である。当時、向平の地は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の末孫、※能褒井(のぼのい)三郎朝成が治めていたようで、その館があったからだと伝えられている。樹本皇子は、兄桓武天皇に相対して、この地に京(みやこ)の造営を図られて※田切麿、※幾久麿父子に奉仕を命じられた。親子は、懸命にご奉仕申しあげたという。この京地を皇子は、「能褒野(のぼの)」と称した。また樹本皇子は、向平、畑毛、塩崎の三郷(さんごう)の宮 ― 多喜諏訪神社 ― の北方(現在の字寺田)に、伝教大師の愛弟子道願(どうがん)を招き、天台宗の白滝山福田寺を開いて菩提寺とされた。福田寺が、現田切山春光寺の前身であると伝える。なお、樹本皇子は、延暦22年(803)11月15日、この地で福田寺に葬られたという。「京ヶ野」の地名については、「京(みやこ)造営の地」からきているという説が有力だが、京都の京(みやこ)(※長岡京か)ほどの広さのある所を意味するという説もある。
大字京ヶ野新田の広さ
字楽之段 二〇町 四反 八畝 二七歩
字 溜尻 二九町 四反 六畝 二九歩
字土井上 四町 五反 八畝 一五歩
字土井下 二○町 八畝 六歩
字下周囲 二一町 五畝 一三歩
合計 九五町 六反 八畝
〔注〕
坂上田村麿(さかのうえたむらまろ) 征夷大将軍
天平宝字二~弘仁二年(758~811)
能褒井(のぼのい)三郎朝成 日本武尊(やまとたけるのみこと)(倭建命とも書く)の第一皇子―
坂井皇子 八玉主命(やつたまぬしのみこと) ― の第三八世の孫。
田切麿 坂上田村麿の弟で、三郎朝成の娘を娶(めと)り、田切四郎資朝(すけなり)と名を改める
幾久麿 資成(すけなり)。父資朝、母は、三郎朝成の娘。
延暦二三年(804)樹本皇子と美妾(びしょう)(安部仙誉(せんよ))との間の姫君(一一歳)を娶る。
平城京 東西 約0.9キロ 南北 約1.1キロ
長岡京 未完のまま放棄 大きさ 不詳
平安京 東西 約3.5キロ 南北 約4.1キロ