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員弁町沿革

員弁町は、三重県の北部に位置し、南北に長いひし形、北部は山地、南部は平野部、市内では平坦地率が高い地域です。この平野部を員弁川がとうとうと流れ、員弁町は古くから河岸段丘の台地上に発展してきた。それを証明するように「北野遺跡」や「岡古墳」が発見されている。「員弁」の呼称は、4~5世紀ごろ、摂津の国、河辺郡為奈郷(兵庫県池田市)に住居していた新羅系渡来人で、木工技術の部族「猪名部」がこの地に移り住んだことによるとする伝承がある。大宝元年(701)に大宝律令が制定され、国-郡-里の整備がされ、和銅6年(713)、諸国ノ郡名ハ好字ヲ著ケヨ」と定められたので「猪名部」は「員弁」と書かれるようになった。その後、霊亀元年(715)になって郷里制が施行されて里を郷に改正し、国-郡-郷となり、郷の下に2~3の里を置くことにされた。伊勢国は大国で、桑名・員弁・朝明・三重・鈴鹿・河曲・奄芸・安濃・壱志・飯高・飯野・多気・度会の13郡からなり、員弁郡には野摩(やま)・笠間・石伽・美也・久米の五郷があったといわれる。

員弁町は、旧山郷村・稲部村・神田村・七和村などとともに野摩郷に属し、そのほとんどの地域が徳川時代には長く桑名藩の治下に置かれていた。その後明治22年(1889)町村制実施に伴い、市之原・坂東新田・上笠田・宇野・下笠田・笠田新田の6か村が合併して笠田村となり、楚原・御園・畑新田・松名新田・平古・大泉新田・金井の7か村が大泉原村、また西方・大泉・東一色の3か村が大泉村となって近代自治行政の基をつくった。さらに昭和16年(1941)2月、笠田村・大泉原村・大泉村の三村合併によって員弁町になった。現在は、町のほぼ中央部を国道421号が東西に走り、それと並行してその南部を北勢線が走っている。国道沿いには、事務所や商店、コンビニエンスストア、マンションなどが建ち並んでいる。また、工業団地やゴルフ場もあり、活気ある町の顔を見せている。また、農業用水としてつくられた「いなべ公園」。員弁大池を中心に、周りの自然をうまくとりいれた、まさにサンクチュアリで、多くの方々が訪れる人気スポットとなっている。