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藤原町沿革

藤原町には土器などの遺跡が数多く、古代から人々が暮らしていたことがわかっている。
学者として重要な地位を築いた春澄善縄(はるずみのよしただ)ゆかりの地でもある。
鈴鹿山脈東のふもとにあるこの藤原の地からは、縄文時代の土器や遺跡が発見され、少なくとも1万年前には人々が生活を営んでいたことがわかっている。

古代の藤原は、伊勢の名族・猪名部氏と関わりがあり、もともと「猪名部」であった地名が「員弁」となったのは、和銅6年(713年)元明天皇による「国・郡・郷名は2文字の好字を用いよ」という命がでたことから、員弁と改めたものであると伝えられている。猪名部氏は当時の大工集団で、各地を転々とするうちに一部が員弁郡付近に定住した。猪名部氏の氏神である伊香我色男命(いかがしこおのみこと)を主神とするのが猪名部神社で平安時代の偉大な学者・春澄善縄の一族も代々伊香我色男命を祭り、春澄の姓を賜るまでは猪名部の姓を名乗っていた。
春澄善縄は、平安初期の人で、長尾に育った。生まれつき非凡の才能の持ち主といわれた善縄は、京に出て学問に励み文官試験に合格、天長4年(827年)には常陸国(茨城県)の少目に任官し、翌年春澄の姓を賜った。以来、位も順調に進んで参議従三位に昇進し、文徳天皇に学問を御進講申し上げるまでになった。当時摂関政治の権勢を一手に掌握していた藤原良房からも重用され、ともに「続日本後紀」という国史20巻を完成させた。

源頼朝によって鎌倉幕府が開かれると、この地にも地頭が配置されたようである。このころには、伊勢内宮の神領として御厨(みくり)、外宮の神領として御薗(みその)が置かれた。鎌倉幕府が滅び、室町幕府が開かれると、足利氏と天皇方の溝は徐々に深まっていき、南北朝の争乱が起こる。この地域には北朝の足利方から近藤氏が派遣されて城を築いたといわれている。藤原町内には、古田城・上平野城・山口城・野尻城・石川城・東禅寺城・万太城の8つの中世城館跡が確認されており、遺物としては、土師器・陶器・磁器が出土している。

やがて室町幕府も弱体化し、戦国時代へ突入すると、織田信長が北伊勢攻略のために出兵を開始した。その回数は、元禄10年(1567年)をはじめとして6度にも及ぶ。員弁でも信長によって焼失させられたという寺院は多く、その一つが聖宝寺である。天正8年(1580年)、織田家家臣の滝川一益によって、本尊先手観音立像以外すべて焼き払われてしまった。その理由は、これらの寺院がいざとなれば城館の役割をなしていたからだと考えられている。その後、本能寺の変で織田信長が横死すると、やがて豊臣政権が樹立される。しかし秀吉の死後は再び戦乱が起こり、関ヶ原の戦いへと発展していく。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、全国の大名の配置転換を行った。このとき関ヶ原で活躍した家康の家臣・本多忠勝が10万石の大名として桑名へ移ってきました。これが桑名藩の基盤となり、藤原も統治下に置かれた。以後、この地は幕末・明治維新に至るまで桑名藩に属することになる。

天明年間(1781~89年)には全国的に大飢饉が起こりました。特に天明2年(1782年)は洪水や台風が3度も郷土を襲い、農民の困窮はその極に達した。しかし藩は納米厳守の上、流出した田畑の減免なしという過酷な通達を出したため、農民たちの怒りが爆発しました。そして12月、員弁郡大泉にどこからともなく農民が集まり始め、「ひだるい・ひだるい」と口々に連呼しながらその数は3万近くまでふくれあがりました。願い事を聞き届けるという藩士と農民代表との交渉の末、7日間にも及んだ一揆は終結を迎えるが、この大騒動が天明騒動である。

明治新政府になり、学制・徴兵制・地租改正の3大改革をはじめとする諸制度の近代化が進められた。しかし、これらは国家目標達成のための至上命令で、民衆にとっては突然の押しつけであり、物的・人的な負担の強化でしかありませんでした。民衆の不満は徐々に高まり、やがて爆発します。
三重県に起こった伊勢暴動はその代表的なものであった。
明治9年(1876 年)三重県飯野郡魚見村をはじめとする5カ村は、安い米価の矛盾を含んだ地租改正に対する嘆願書を連判して区長へ提出しました。しかし受け入れられず、本庁から出張していた警部が別の場所に集まった群衆を殴るといった事件も起こったため、一気に暴動へと発展したのである。この暴動はすぐさま三重県全域に広がり、藤原でも公職を持った人々の家や学校などが焼かれました。

明治21年(1888年)に町村制が公布され、翌年、東藤原・西藤原・白瀬・立田・中里の旧5カ村が誕生した。その後、町村制は9回にわたって改正され、昭和22年の地方自治法施行に至るまでの約60年間、わが国の地方自治の発展に寄与してきた。この間日清・日露、第1次・第2次世界大戦へと次々に大戦争が起こり、藤原町も巻き込まれた。特に第2次世界大戦では、多くの若者が兵役にとられ、おびただしい数の戦没者を出した。

昭和30年 藤原村誕生
昭和42年 藤原町誕生
昭和46年 役場新庁舎落成
昭和47年 国道306号 鞍掛トンネル完成
昭和49年 藤原岳自然科学館開館
昭和49年 老人憩いの家完成(ふじわら荘)
昭和52年 三重用水中里ダム完成
昭和54年 町民野球場第一グラウンドオープン
昭和54年 国道365号篠立~古田間開通
昭和56年 ほ場整備事業始まる
昭和59年 集落センター完成 山口集落センター 本郷集落センター 上之山田集落センター 日内集落センター 米野集落センター など
昭和59年 篠立にあった粗大ごみ処理場が使えなくなり、鼎(中里ダム堰堤)に移転
昭和60年 町民憲章・町の花・町の木制定
平成元年 町民文化センター開館
平成2年 舞谷工業団地完成
平成2年 行政無線「広報ふじわら」開設
平成6年 藤原工業団地完成
平成8年 藤原町簡易水道統合整備事業給水開始
平成9年 農業公園整備着手